前あるひとに分析してもらった
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山田南平の作品に、そういった根本的な「人と人の交流」が欠けている、というのは、僕にはほとんど確かなものと思われます。それは、至る所にあらわれていて、その中で人によって逆鱗に触れる部分は違うけど、全体的に皆が怒っている部分というのは、核心的な部分においては、同一だと思うです。
たとえば、僕が紅茶王子の1巻のその部分(※1)に怒ったのは、主人公のみならず、周り全員がそれを「よいこととしている」、というふうに描いているからです。そこには、ほとんど「誰かのことを想い慕う」ということに対する原理的な問題が、あるように思うわけです。たとえば、僕がAという人に会いたい、Aという人が好きで、会いたい、と思うのは、そのAという「自我」と交流したい、互いに一緒にいたい、相手のためになりたい、など、自分が相手を好きだと思う、自分が相手に何かをしてもらう、ということを超えて、相手の記憶=自我に何かを刻んでほしい、自分が相手にとって少しでも価値を与えたい、と想うことである、と仮定しましょう。
人に対する想いとか、そういった言葉には、本来的には、僕はそうでなくてはならないと思っていますが、それはさておいて。
で、このシーンにおいて、主人公は、「自分が」父親に会えた、ということを嬉しく思っているし、「主人公が」父親に会えた、という点でみんなが考えているわけですね。ここでは、父親が父親ではないし、それが本当の意味で父親と会えたわけではないから、本当は何の意味もないことなのだ、ということを、(未成熟な主人公がそう思わないことはともかく)どこかで語らなければいけないシーンなわけです。ここでは、先にあげた「心の交流」といったものはまったく成立していませんから。だから、「親子の愛情」の定義の、先の仮定は否定されていますし。
だから、定義とこの表現のどちらが間違っているか、と考えたら、僕はここで描かれているのは、未成熟で一方的な思い込みに過ぎなく、物語のクライマックスに持ってくるなんて絶対に出来ないシーンだ、と僕は考えます。これじゃあ、人形に対する愛情と何ら変わらないわけですよ。あくまで、好きだったのは「自分」で、「自分」がすきだった人に会えたから嬉しいわけですから。本当は、父親という人にはもう決して会うことは出来ないし、それでもその想い=記憶は大切なことなのだ、ということなのに。
そこには、父親が「父親の実体=過去の父親の自我」である必要はなく、その愛情の部分には、双方向的な意味がまったく欠落しているわけです。相手を思う感情でさえ、即物的な、極めて底の浅いもの、として扱われているわけです。
これを愛情というならば、それは全く自分勝手で未成熟なもので、別にそれを完全に否定するわけではないですが、全編がそういった未成熟で一方通行の人間で成り立っている作品というのは、やはり異様です。山田南平の作品が描く人間には、そういった意味からも、全く人間としてのリアリティーが欠落していると結論せずにはいられませんが、上記の論理展開から、どこが受けているか、というのも良く分かりますね。
ある意味での「自己愛人間」にとっては、山田南平の描く世界というのは、自分を甘えさせてくれる気持ちのいい世界だと思います。そこが受けているのだろうし、まあそれを完全に否定する、とまでは言いません。ただ、何らかの意味での成長がなければならないとは思います。しかし、その「成長の欠落」すら、今の時代を、表しているものなのかもしれません。
※1...紅茶王子1ラストで願いを叶える紅茶王子が、父親をなくしている主人公のまえに彼女の父親の姿にばけてあらわれ、「もう一度パパとお茶したい」という主人公の願いを叶える、というラストです。
- re: 鰯 投稿日:1999年02月06日(土) 15時55分
彼女のことはログが消える前どころか、あめぞうが
移動する前の初期のころに(すごい歴史を感じる…)
書き込みがあって盛り上がったような…。
自分もカキコしましたが(笑)
その時のネタ>白泉主催で先生達のディズニーランド
ツアーを企画したところ、順調に人が集まっていたのに
山田さんが参加するってことになった途端「彼女が
来るなら行かない」と全員キャンセルしてしまった。
結局、山田さん夫婦と編集何人かでツアーは決行
され、いまいちなノリの編集をまったく気にしないで、
彼女たちは大盛上がりだったそう。
- re: やまや 投稿日:1999年02月06日(土) 16時10分
↑こんななのに、本人は「私友達多いからー」
ってカンジですよねぇ(笑)
コミックスに、自分の体重載せたりとか・・・
相当自分に自信があるんだなー、とか思ってました。
それにしても白泉社、最近ホントすごいですねぇ・・・。